2018年6月23日土曜日

SNSのプロフィール写真。

たまにはヴァカなりにちょっとだけ真面目な事、書くね。

この写真、GB(ゴキ〇リ)にクリア掛けてぶち殺してる図、
なんだけどホントは銃口をイメージしたのね。
GB(ゴキ〇リ)を軍服の違う敵兵に置き換えれば
これはもう戦闘中の今まさに死ぬ兵士が最後に観る光景
そのものだと思うのね。


GB(ゴキ〇リ)には平気で無慈悲で冷酷な目で殺生出来る人間、
憎しみ合えば憎む原因が出来ちゃえば
戦場でこうして同じ「人間」に引き金を引くなんざ
簡単な事になっちゃうと思うのね。


戦地に配属になった兵士は始めは躊躇っていても
「国」の為っていう大き過ぎて
ぼやけた大義名分で始まった戦争だったとしても
戦友の非業の死とか故郷が爆撃されているのとかを目の当たりにする事で
もっと個人的な、でももっと強烈な憎しみに置き替わって
戦場で敵兵とこういう場面になったら
命を失った戦友や家族や恋人の仇を取ってやりたい
そんな気持ちだけで心が全部支配されて
何の躊躇も無く引き金を引けると思うのね。


過去の人類の戦争のほぼ全てが
「国家」の正義に始まったものだとしても
末端の戦闘ではもっとパーソナルな
「弔い」とか「生きたい」とか
もっと個の動物的な生きる「本能」で闘っていたんだと思うのね。
その戦争の是非は未来の時間や歴史学者が講釈垂れるもので
当事者はどちらもただひたすら
「明日を生きたい」だけだったと思うのね。


正直、この引き金引いてるような冷酷な目と表情は
俺は人間の誰にでも持ち合わせるものだと思うのね。


「愛と平和」は、今置かれてる状況がまさにそうだから
雄弁に語れるし多くの共鳴を得られるのであって、
いざ死ぬか生きるかの切迫した状況に陥れば
人間という生き物は見知らぬ他人に
情け容赦無く牙を向けられる生き物なんだと思うのね。


というか人間の本質はそれ、と認めていない人は
やっぱ平和の土台の上にいるんだと思うのね。


極端な話、俺は自分に関わる人々や友人、家族といった
自分と何かしらの「繋がり」のある人、
それ以外の人間がどうなろうが知ったこっちゃないのね。
街でクソむかつく絡まれ方すれば容赦なく喧嘩になるし
そんな態度向けて来たヤツなんか鼻が折れようが
歯が折れようがどうなろうが知ったこっちゃないし
俺は国も国歌も国旗も好きだから
(だからといって右とは自分ではちっとも思ってないんだけど)、
悪意持ってこの国を侵略してくる国が出現すれば
ぶちのめしてやりたくもなる。


でも人間って不思議と一度でも会話盛り上がったり
親しみ持ったならば
やっぱその人を大切に思うし困ってたら助けてあげたくもなる。


ならばこの「無慈悲」な内面も持ち合わせる自分が
安寧に「平和」っちゅうモンを全う出来る方法ってのは
兎に角色んな人と繋がっていく事なんじゃないかな、と思う。
「いちゃりばちょーでー」の精神だね、うん(笑)


自分の中に「修羅」がいる。
人間なんて生き物はこれを「理性」で抑えているだけ。
だから俺は「理」や「知」を出来るだけ増やして
共感できる人間を増やしたいから、
文化も国籍も年齢も性別も右も左も関係なく
なるべく繋がっておきたいと思うのです。


これで「国」が変わるなんざこれっぽっちも思っちゃおりません。
ただ、ワタシとワタシの周りがこれで「平和」になるのであれば
一生涯をそう生きていたいと思うだけです。


長文、失礼しました。
ブース入ってクリア吹いてきます。
長々と書いたのはクリア乾燥待ちで暇なのです(笑)