2018年2月10日土曜日

コザ十字路・黒人街跡地。

 十字路銀天街以外もあまねく歩いてみる事にする。
実家のあった越来地区はもう十分撮り収めたので
美里・宮里・照屋地区を中心に歩こうか。

 もう絶対開けられないだろうという位錆びたシャッター。
コザの「今」をこれが雄弁に語っている。


今では民家となっているが
ここは復帰前後は賑わった黒人街だった場所。
通称照屋社交街と呼ばれていた地域。
それはもう40年50年も前、およそ半世紀前の昔の話。
ただ、街の時間が以降止まっているので
半世紀前の「遺跡」が未だに少し残っているのだ。


 階段のコンクリが激しく劣化してるからかワイヤー巻いてあるが
それも完全に錆びて朽ちている。
正直登ろうと思えない。

左のボコボコのドアとその並び、
そして軽自動車の後ろのシャッターは赤線跡だね。
上に小さな看板付いてるからそれで何となく理解る。

 沖縄は基本コンクリ住宅が多いので
思った以上にパステルカラーな建物が多い。

 ここがかつて黒人街だった照屋社交街のメインストリート。

 幾重にも塗り重ねられたペンキの看板にだけ
かつての社交街の栄華が観てとれる。

 これもカフェー建築だね。
でも確かここはBARだったはず。
BARの前身がそういう宿だったのかもしれない。

照屋社交街跡地のメインストリート、
銀天街抜けたその先のこの緩やかなカーブとその周辺の裏道。
この道は先に紹介したアーケード街の銀天街を抜けきった続きになってるのだが
その銀天街も出来たのは復帰して4年後の1976年。
要は復帰前は銀天街含めこの地域は全て黒人街だったんだ。

 ちゃっかり今風の石敢當(笑)
でも何だかまだ街に子供と未来があるように思えて
ちょっとホッとする。

 典型的な売春宿の建築物。
基本沖縄ではアーチ形の玄関や窓は元売春宿と思っていい。
内地では建物の四隅や入り口がアールデコ調で曲線描いているのがカフェー建築。
ここ沖縄ではコンクリ建物だったから窓や玄関口でこういう造りになっていた。

がっちりした造りしてるから
結構高級な娼婦の宿だったんだと思う。
メインストリートだし。

どうにかHOTEL KOTOBUKIと描いてあるらしいと読める。
その上にひかり食堂とある。
身体売ってたそこで次は飯売る。
あとはカプセルホテルで睡眠欲もやれば人間の3大欲コンプリートだw

様々な形態で使用され
今は廃墟となって取り壊される日をそっと待っている。

これは建築からするに当時はホテルだったっぽいね。
勿論普通の宿泊ではないよね(苦笑)




 残念ながら「うちなんちゅ」は結構平気で不法投棄する。
裏道になると清掃車が入って来れないので
ゴミ捨て場まで行くのメンド臭くて放置するっていう
何ともまぁどーしよーもない理由だったりするんだけどね(苦笑)

 あと「うちなんちゅ」はサビと凄くお友達(笑)
ここまで錆てても平気で放置する。
「えー、触ったら汚いだけで鉄は大丈夫さー」
鉄が脆くなるという概念が無いらしい。
「えー、なら海洋博のアクアポリス最後にどーなったか思い出すといいさー」
そう言い返してやりたくなるw
(アクアポリスは晩年錆に錆びて朽ちに朽ちて
鉄屑として中国にえい航されていって生涯を閉じました。。。。)


この廃墟もまぁ間違いなく赤線宿跡。
玄関上だけペンキの重ね塗り多いからね。
こちらは路地裏だから安い店だったんだと思う。



 「うちなん」の悪しき代名詞。
ノーメンテ。

 この見た目で現役の照屋公民館。

 誰も住まなくなった木造住宅の最期。



 ただひたすら自然に帰るのを待っているだけ。



 「見えなければいいさー」で裏にゴミを山盛りにする。
残念ながらこれもうちなんちゅっぽいところ。

もう一度かつてのメインストリートに戻る。



かつての「街」なので午前中の真栄原と比べれば精神的に負担は少ない。
でも午前中足捻ったのでちょっと歩いていて痛い(苦笑)

 これも昔はBARだったんだろう。
残念ながらもう読めない。

その昔は未だ黒人差別も米兵の中でもしっかりと存在してて
胡屋の歓楽街を遊ぶ事の出来ない黒人の為の街がこのコザ十字路だった。

 ラップやヒップホップが台頭してきて
ブラックカルチャーがもてはやされるまでまだまだ先の話なので
それまではここが黒人兵達の歓楽街だったんだね。

 なのでこのコザ十字路はEarth Wind & FireやSam & Dave、
Kool&the GangやBoneyMなんかがいっぱい流れてた。
Uga chaka   Uga Uga~♪とかI Gotcha!!とかね。
とはいえワタシが生まれた復帰の年以降はもうここは廃れていたけどね。
黒人がここで思い切り幅利かせていたのはおふくろの高校生時代とかだろうね。
だからレザボアドッグス最初観た時はアガッた(笑)

 奥の奥にみつけた。
まだあったんだ。



 黒人街のBARでオレゴンとか意味不明なところは
まぁ沖縄らしいっちゃぁ、らしいね(笑)

かつての栄華の証として、コザには大きな映画館が幾つもあった。
コザ十字路オリオン座とかコザセントラル劇場とかがあって、
オールナイトで色んな映画放映していた。
そして最後まで残っていたコザ琉映。
晩年は只のポルノ映画館になってしまい、それも力尽き2016年に取り壊された。
あの時撮っておけばよかった。今はもう無い。
画像はネットより借用した。

同じくネットより晩年のコザ琉映。
街の風景は大抵、無くなってから「撮っておけばよかった」、
そう思ってしまう事が多い。
あるうちはそれが当たり前すぎて何とも思わないのに
なくなった瞬間から寂しくなるものだ。

ここはもうね、右も左も売春宿跡。
左の民家は如何にも沖縄の旧い建築みたいにみえるけど
あのドアの異常な数は間違いなく元そういう宿(笑)


昔っから売春って商売としては最古のものでもあるからね、
それの是非はここでは問わない。
でもそれは今でもどこかに現役で確かに存在するものであるのは間違いない。





どなたかが作成してくださった今となっては非常に貴重な資料。
バー、レストラン、テイラー、バーバー、そして売春宿。
この渾然一体が沖縄そのもの。
無くならない様にこちらでも掲載させてください。

かつては中部沖縄の要所であり、様々な路線のバスが全てここを通過した拠点。
復帰前は那覇よりも遥かに賑わいがあった場所。
復帰後も昭和の時代まではコザも隣の胡屋もアーケード街は凄い賑わいだった。
あの頃は誰しもがコザがここまで死ぬとは思わなかったと思う。
ワタシもここはある意味24時間眠らない活気のある場所だと思っていた。
平成になり郊外に大規模なショッピングモールが出来ていき、
主婦も子供らも気軽に車を運転する時代へと移っていき、
日本国内のどこの地方でも起きている地元のシャッター街化が始まる。
平成の屋号の元、コザはどんどんと死へと戻れない歩みを進めた。

 何にもなくなってしまった只の交差点になってしまったコザ十字路。
かつてはこの信号向かいにモスバーガーがあったんだ。
隣には本屋さん。上は学習塾。
夜でも塾帰りの高校生とかで結構賑わっていたんだけどね。

 かつてはビルが並んでた場所、
今はこのちひろ薬局だけが存在してた。
店のオーナーさんのお孫さんの名前とってこの店名なんだよね。
地元だから知ってる(笑)

 あと丸長食堂がご健在だった。
これは嬉しかった。
この食堂については後に食べ歩きでレポートまとめるから
そこで書くね。

 十字路から安慶田(あげだ)過ぎて胡屋(ゴヤ)へと登っていく坂のところにある
コザボウリング。

 一瞬廃墟に見えるけど
これは立派に頑張ってこれでも今でも営業中(笑)

 東京ではもう排ガス規制で走れないちょい古なディーゼルも多分現役。
鬼の寄せ方しとるが。

 まぁ当然の如くこっちももうダメ。。。。





借り手のいない広いテナントに余裕の軽。
そしてやっぱりゴミ放置するうちなん節、全開w

 かつてはスロープだったんだろうけど

 今はテイクオフOnly。

 隣はもう死んだっぽい。


 営業を止めたその日から延々と時間が止まっている店内。
むせる位にこんなのばかりになってる、
それが今のコザの現状。

 ピンボケちゃったけど夜来訪した時のコザボウル。
ね、ここはしっかり営業中。

宮里にあったダンスホール。
昔はここでお洒落した黒人が夜な夜な踊っていた。
ラップ・ヒップホップ以前の黒人さんって結構お洒落だった。
スーツにステッキ、そしてハットとかが洒落た黒人のスタイル。
ラフでもオープンシャツにベルボトムって感じだった。
ただ、米兵だったからアフロはいなかった(笑)
今は既に取り壊されてもう無い。

同じ場所の10年前。
まだ存在してた在りし日の最後の姿のコザダンスホール。

もう消えていくだけ、死んでいくだけのコザ。
この光景を以てワタシのコザも終わる。

そろそろ今日の宿り木(宿泊先)へと向かおう。
何かもうこの時点でコザ凝縮しまくってるが実はまだ2日目、だ。
しかも足引きずっている。
残り4日、大丈夫なのか?・・・・